カント 

Immanuel Kant (独)1724〜1804
主著「純粋理性批判」「実践理性批判」「永久平和のために」






皆様、「カント」なる人物をご存じでしょうか?
彼はいわゆる「哲学者」。
哲学が何たるかを、私に問われても答える事は出来ません。
しかし、彼の思想は
なかなか良い事を言っているのだと私は思います。
ココでは、私なりの解釈で、
カントの思想について説明しようと思う次第です。



カント(以下:彼)哲学は、どのような立場を取るのか。

彼の哲学とは、手段であり方法だと位置づけます。
つまり、自分の気になる問いにどのように答えを出すかを学び
最終的には自分で思索することの手段が、
哲学や倫理の存在だというのです。
曰く
「人は哲学そのものは学べないが、哲学する事とは学べる」と。




そしてここから彼は、自らに科した問に答えを求める事になります。
彼は
こう問いかけます。



「私は何を成すべきか」と。



自分が思いおこなう行為が普遍的に妥当なものか、
いつでも・誰にでもあてはまるのか
すなわち、行為の善悪について
裁量を如何になすかを求めたのです。





それでは、質問をしましょう。
『良い事(もの)』とは何でしょう?
『悪い事(もの)』とは何でしょう?




例を挙げましょう


「常に、努力を絶やさず努力する」事は良いことでしょうか?
往々にして、絶え間ない努力とは難しいものです。
それを常に行えるのだから、それは当然良い事の様に思われます。


しかし、本当にそうでしょうか?
確かに、努力の行為対象が『勉強すること』や『人助けする事』であるとしたら、
とても良いことと言って構わないでしょう。
だだ、対象が『人殺しをする努力』であったり、『人から物を奪う努力』で在るとするなら。
この努力は、全く良いことではありません。



違う例え話をしましょう。
此処に拳銃があります。
この拳銃は『良いもの』ですか? 『悪いもの』ですか?


答えはどうでしょう。




答えは『どちらでもない』が正解。


なぜならば、拳銃そのものに善も悪も無いから。
拳銃は拳銃として其処に在るだけであり
それだけでは、何も用を為しえません。



つまり、拳銃が拳銃として人間に使われる事により
初めてその拳銃は意味を成します。


人を殺すつもりで犯罪者が使えば、それは『悪いもの』だし
警察などが善なる意志で使えば、『悪いもの』でなく『良いもの』になる。




ようは、行為の元となる考え、つまり行為の動機が重要である
と、彼は説くのである。
彼は、人間の行為の良さの根拠を以上のように考え
「善意志」と呼びます。
「善意志」とは、絶対に善なるものの事である。



かみ砕くと
「私」が、良いと思ってやった行いは、「良いこと」だし
「私」が悪いと思ってやった事は、「悪い事」なのです。



極論してしまえば
相手がどう思うと、結末或いは結果がどのようになろうが関係在りません。
善なる意志の行為で、相手に感謝されようが、怒りを買おうが、結果は全く別問題
とにかく、私は「良い事」をしたわけです。
逆もまた然りで、
悪意のある意志のもと、相手が感謝しても
それは「悪いこと」をしたにすぎません。


この内包する矛盾を、彼は「目的の王国」と称し
説明してゆくのですが、またコレは別の話




今日、何も解らなかったのであれば、それで結構。
只簡単にまとめるとしたら私以下のように答えます。



まとめ
 →「物(物事)」それ自体には、善も悪も無い。
 →「善悪」は、行為の動機が決めるのである


カント哲学は
「常に良い心がけで接し、行動せよ」と、つまりはこういう事なのでしょう。