評価

 私を評価する言葉に
『よく頑張っている』
というのがある。


往々にしてこの手の評価は、好ましい意味合いで使われるらしい。
たが、果たして本当にそうなのだろうか。
今回は、『よく頑張っている』を
違う角度から、自分自身を参考に、考察してみた。


なお、ココでは
評価する側=上司
評価される側=私(どくりんご)
を、前提に話しを進めていきます。



そもそも、頑張るとは
①途中の困難にめげず、最後までやり通す。
②持てる力をフルにだして、努力する。
が定義*1


なるほど。
確かに①や②の意味合いならば『+(プラス)』評価なのだろう。
しかし、他に「裏の意味」が在るのだろう、と汚れた社会人は邪推するのである。


まず、頑張ると評されるには、
上司(評価する側)が、私(評価される側)を

『途中の困難にめげず、最後までやり通す』
『持てる力をフルにだして、努力する』

の状態*2であると理解しなければならない。



つまりこの時
『理解出来た』過程には、二つのパターンが想定される。

鄯)【能動的・直接的理由】働きかけることで知っている
鄱)【受動的・間接的理由】見ただけで解ってしまうこと。
この時、私が『よく頑張っている』に値するのだと
上司は判断すると仮定し、前提条件とする。




この場合、
鄯の場合は問題にあたいしない。
なぜなら、上司は私に直接尋ねたりして働きかけ
そして、私の状態を考慮した上で熟慮し、判断された結果が
『よく頑張っている』
すなわち、「最大限の努力を成している」で在るからだ。
つまり、私の働きは『「良い」と評価するに相違ない』と認められたからだ。



問題は鄱の場合である。
別に、そう評価される事が問題ではなく
「見ただけで『持てる力をフルにだして努力する』と思えてしまう」の状態に陥る事。
それ自体に大きな問題を感じるのである。
言い換えるなら
「お前は仕事にイッパイイッパイである」と言われているのだから。
コレでは、使えない人間認定されたも同然である。



仮に私が鄱の意味合いで、こう評価されているとすれば
大変な事である。
仕事だけで手一杯な人材は、役に立たたない事は言うに及ばず。
仕事とは働くこと。
自分の仕事の他にも成すべき事をし、まわりが楽出来るようにせねば
『はたらく』*3事にはなりませんから。




『よく頑張っている』と評価されたとき
貴方は鄯OR鄱どちらの意味で言われたのでしょう
果たして結果は………………

*1:三省堂 新明解国語辞典

*2:辞書の定義。①②の意

*3:『働く』と『傍(はた)楽』を掛けています